NAMIKOSHI Shiatsu Europa

小野田 茂 浪越指圧ヨーロッパ代表 に12の質問

浪越指圧ヨーロッパ代表である、小野田 茂氏にインタビューをしました.

■ 質問1 指圧師になったきっかけ

ひとつは環境そしてひとつは偶然にあります。親父、じいちゃんとお灸や針が好きで、子供のころから何か分けのわからない人達が家に出入りしていたのを子供がてらに覚えています。そんな環境に育っていたので指圧,按摩、針が私の生まれ育った環境では東洋医学ごくごく手の届く日常の出来事だったということです。

指圧やマッサージを受ける人は、ごく当たり前にセンターに来てくれますが、サラリーマンなどの家庭ではよっぽど縁がないと一生この世界とは縁なしの人がいます。そして学生のときに運動してましたので腰痛や捻挫などのときはよく針、指圧を受けていました。身近の存在だったみたいです。

学生が終わり就職しなければならない時期に自分の歩む道がわからずに悶々としていたころスペインのバルセロナに遊学する機会ができて遊び半分、語学をマスターすること半分で1年半ほど滞在しました。自分の道を見つけるというまさにその時期にバルセロナにいました。あるときデパートの本屋さんで指圧の本を見つけました。その薄ぺらな本が浪越徳治朗先生のスペイン語に翻訳された本でした。早速買って勉強をかねて翻訳しながら読み始めました。これが実に頭に入るんです。そしてこんな世界に入ったら面白いかもしれないなーと考えました。

それから1年半後に、日本指圧専門学校の生徒としてスタートしていました。これが指圧しになったきっかけです。

 

■ 質問2 学生時代はどうすごされましたか
日本指圧専門学校に入学したのが25歳でしたので学生としては、若くはないわけです。大学生時代の親頼みの学生ではありません。この期間にすべてをマスターしなければなりません。午前のクラスでしたので3ヶ月ぐらい過ぎたころから町の指圧の治療所にアルバイトとして潜り込みました。本当の見習いです。まったくの無報酬でいいからとにかく学びたいの一言で押し通しました。

トータルすると学生時代、4軒の治療所で学びましたが、私は、外国で指圧をしたいということを正直に最初に話してからのバイトでしたので、先生方には本当によくしていただきました。今でもそのころの先生方との交友があります。何しろ時間が無いということで、日本指圧専門学校のほかに、指圧の先生を長とする塾(稲場警護先生を長とする水曜会)に通いました。また外国で指圧が通用し無かったらと麹町リバースのオイルマッサージの講習、三浦寛先生の操体法の講習等、結構お金を使いました。

日本指圧専門学校を卒業してからユニバーサルカイロプラクティックカレッジの門をたたき、初期のSOTやトムソンなどの手技も習いました。ただ今いえることは、学校でも講習でもすべてに興味があり、飽きという言葉も必要とせずこれは俺の仕事としてやっていけるという確信がつかめたことが一番の励みになりました。好きなことを見つけたという充実感そのものです。学生時代もいろいろな年代の人がいましたので、人生面で勉強させていただきました。この学生時代が実に印象に残っています。

 

■ 質問3 浪越徳治朗先生との思い出に残っていることはなんですか。
私たちが学生のころは、特別授業として年何回かのペースで接触することができました。その折に何回か親指を触らせていただいたことがありますが、なんと大きく、マシュマロのように超柔らかいが第一印象でした。まるで赤ちゃんの肌の感触なんです。土方や事務職の手じゃないんです。このときにこの先生は何万人に一人の天職指圧師と確信しました。

またスペインに居住まいを定めた何年か後の帰国時にホテル・オークラで徳治朗先生以下浪越ファミリーとご苦労界の食事会を設けていただいたこと。また、晩年ペルー、バンクーバーなどの世界大会にご一緒させていただいたことが印象深く私の頭にインプットされています。指圧の心母心、まこと持って実践され、指圧は技術ではなくひとを思いやる心だといい続けた徳治郎先生は永遠の師であります。

 

■ 質問4 卒業してからスペインに渡るまではどうなされていましたか。
在学中に卒業したら外国で指圧をやろうとので目的意識を持っていましたので、すぐに海外雄飛を考えたのですが、技術的名不足が目に見えていましたので池袋のユニバーサルカイロプラクティクカレッジに通いました。

背骨の問題が外人は多いと聞きましたので最低限の知識を得たいとの思いがありました。学生のときに操体法の講習を受けていましたので単発的な講習に出席していました。午後は、指圧治療院、夜は渋谷のスペイン語学校と休む暇が無かったです。

ただ30歳を過ぎてたとえ技術が上達しても,外国に行く根性は若い方がいいに決まっています。30歳前に日本を出るこれが一番いいと技術面の不足も心配対象にありましたが、29歳の春に日本を出国しました。

 

■ 質問5 スペインに渡ろうと思ったのはなぜですか。
やはり一度スペインのバルセロナで1年半ほど生活したという地の利とスペイン語圏内ということで南米のたとえばメキシコでもどこでもよかったのですが、友達のスペイン人が何人かいて、今のスペインはよくないけどスペインもきっとよくなるよという言葉に押されてスペインを選びました。

90年代のスペインは、EC加盟、万博、オリンピックと勢いはありましたね。今のバブルのはじけをだれが予想したでしょうか。そんなわけでスペインに居座り始めました。スペインは気候的に大変しのぎやすく、食べ物の食材も豊富で大変住みやすい国です。

 

■ 質問6 スペインで治療院を開業するのにどんな苦労がありましたか。
外国、特にヨーロッパは、言語によるコムュニケーショがすべてです。その点スペイン語は以前より勉強してましたので、日常会話は何とかでしたが、やはり医学的な単語を徹底的に頭にたたきこみました。医者が来院すればそれなりの単語で勝負しないとなりませんので、ほかの分野は片言でも筋肉の名前や病名はがんがん覚えました。

 また、指圧自体になじみが無いので、俺は浪越指圧をするといっても指圧のブランドなどなんの役にも立ちません。自然治癒力を高めるから週一回の施術を推奨しても理想どおりに患者さんが来るわけがありません。

それでは何がインパクトとがあるかというと何しろ痛みをとることです。痛みを1回および2回の施術で取る。このことに集中して勉強しました。特にヨーロッパ人は、特にご婦人は骨格が華奢な人が多く頚椎や腰椎に疾患がある人が多いので、症状をパターン化させて独自の方法を生み出すことに専念しました。

浪越指圧の基本を十分に研究した後にヨーロッパ人の体型を考慮した阿是指圧を作り出していきました。フィジカルペイン、メンタルペインの両方を繋いだ心の病は、即肉体に反射、その反対に肉体の病は心に反射、東洋医学は西洋人にも通じるとの実感を実践で培いました。

好きなことをやってお金をもらっているという感じがいつもからだの中にあれば苦労という言葉は消え去ります。ただ好きでやっても体が丈夫でないと長続きしません。体がじょうぶというのは確かに親に感謝しています。それとどこにいても日本に帰ろうという感情がまったくおこらないという性格がよかったのかもしれません。ということで労働許可証の取得には苦労しましたが、治療院経営に関する苦労はあまり思い当たりません。

 

■ 質問7 治療院だけでなくどうして学院を作ろうと思ったのですか。
指圧の治療は、今でも昔と変わらず一日7~8人を施術しています。経営自体は、治療所だけで十分間に合います。学院のほうは経営面から考えると趣味的要素が多く嫁さんは何で教えているのか理解できないとよく嘆いています。

なぜ学院で指圧を普及するかというとこちらでは,禅指圧とかいろいろな指圧という名の療法がどこから習ったのか、かなりあります。実際、施術、教育と経営面でうまくやっているところが、いっぱいあります。しかし本物という言葉をあえて使用するとみんな偽者です。日本の指圧ではなく指圧という言葉を使ったまがい物のマッサージなのです。

そんな時、日本から来た若者(指圧師)はどう感じますか、情けない、ふざけんなよ、日本をなめている、こんな感情が沸き起こりますよね。この感情が指圧教育の発奮材料です。単純明快の発想です。ただ自分もまだまだ一人前の指圧師とあのころは思っていませんでした。少なくても最初は患者さんの治療に専念して技を磨こうということで2万時間すなわち2万回の施術をしてから指圧教育の場を作ろうと決心しました。

何やかやで2万回の施術には14年かかりました。このくらい圧しまくれば現場での実践を一応卒業ということで2000年にJAPAN SHIATSU SCHOOL(日西指圧学院)をオープンしました。それまで寺子屋的な教育は週末していたのですが正式にすべての書類をお上に提出して指圧教育のために場所を用意して始めました。特に浪越の基本を徹底的に教えて、下地を作ることに時間を割きました。型を重視して基本を全面に押し立てて3年生で計1600時間という時間を消化するカリキュラムを作り始めました。はじめて15年になります。まだまだですが、食える指圧師の育成に精を出しています。

 

■ 質問8 阿是指圧はどのように生まれたのですか。
日本で生まれた指圧です。もちろん日本人にあった治療法といえます。日本人との体、特に骨格の違いを述べると頚椎、腰椎における傾斜の違いに驚かされます。西洋人のヒップアップは大変スタイルのよいものに映りますが,腰痛症の20パーセントが椎間板ヘルニアに起因します。日本人の場合は2パ-セントに満たないものと記憶しています。

またこちらの人の首はすっきりという言葉が大変にあうほど華奢にできています。こんなわけで日本スタイルの指圧を取り入れたら次の日に立てなくなってしまうほどのメンケンが起こることが想像できます。もちろん背骨に関する治療のメソッドも西洋人会うメソッドが必要になります。このメソッドを体の関節の連動を考慮して遠隔部(手先、足先の重要ポイント)からの操作で痛みをとることを考えたのが阿是指圧です。

経絡上のポイントを見つけることも重要ですが、経絡外の阿是穴を重要視してその反射ポイントを見つけてできるだけ、刺激量を少なく、ポイントに効果を表すことを考えたのが阿是指圧です。なぜならば西洋人は、針や、指圧などの外からの刺激に慣れていないので刺激はごくごく最小にすることを基本と考えたからです。このようなことを体型化したパターンを利用して行う治療が阿是指圧です。

 

■ 質問9 阿是指圧の特徴は何ですか。浪越指圧の違いは
やはり私は、浪越の出身ですので、浪越指圧は、バイブルです。浪越の基本指圧は、長年かかって出来上がったものであり隙がなく、無駄もない完璧なものです。しかし冒頭で述べたように創始者浪越徳治朗先生は、何万人に一人の親指を持っていた治療家です。先生の親指は、ただ単に圧するだけで患者さんが満足するものなのです。それに比べると私の指は、弾力が無く苦手指でしたので、むしろマニプレーションに適した手とよく言われました。

そんなわけもあり、首の治療においては阿是指圧では多彩な技があります。また操体法を習得したおかげで、関節の連動による体の動きを見て硬結が体のどこに集まりやすいかをパターン化することで遠隔操作による痛みの消失を可能にしました。結論として浪越スタイルは誰もが習得しなければならない指圧の道ですが、指圧師のすべての人が性格、体の硬さ、親指の体型、体の使い方が違うので一人ひとりが、基本を大事にして各自のスタイルを創造することを浪越徳治朗先生は望んでいるのだと思います。

その点、西洋人は、創造性を持っていますので、正しい基本を徹底的にマスターさせて一人ひとりが個性を尊重した指圧をマスターすればよいと考えています。これが当指圧学院の基本方針です。型にはまらない自由な指圧がいいと思います。

 

■ 質問10 指圧の上達法とは
1)
教えられていた時代。教える立場にいる時代どちらにもいえることは、素直な人ほど上達が早い。
受け入れる姿勢が一番です。何しろ言われたことはすべて受け入れます。そして後で自分なりに振り分ければいいのですから。一番は素直さです。

2)
どこにいても人間観察をしろということです。町を歩いていても何をしているときでも人間の姿勢を観察します。肉体が内面を反射させます。内面が肉体を反射させます。フィズカルペイン、メンタルペインの消失方法はこの人間観察が基本になります。今内をあの人は考えているかという身近な疑問が患者さんとの接触時に物を言います。

3)
いつでも笑顔、いつでもプラス思考が施術者の基本姿勢です。すぐに忘れる引きずらないこれも基本です。

 

■ 質問11 一人前のあはき師
いつもは何をやってもいいけど、めちゃくちゃOK、でも仕事のときはぶれない。そして継続の力を信じること。悩んだらこの仕事が好きかどうかを自分に問うこと好きの結論が出れば、できます。続けられます。
好きなことは疲れません。

 

■ 質問12 好きな座右の銘
「一期一会」
患者さんすべての人、外国にいることも一因してますが、今を大事に生きることを大事にしています。また新しい出会いが最後の別れにも通じているということを末期のがん患者さんなどを施術する機会がこのごろ多いのでよく感じています。

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